2014年02月
2014年02月27日
1064.大百池公園
千葉市の大百池公園。
2897)大百池公園
『おゆみ野における最も大きく、中心的な公園として計画・整備されたのが面積10.7haの「大百池公園」です。
ここから約2km上流の泉谷公園で生れた水は、せせらぎとなっておゆみの道を下り、森のふもとをめぐり、はるばる旅をしてこの大百池に流れ込みます。
公園面積の約1/5を占める大百池は、かつて溜池として利用されていました。
千葉市史によると慶安五年(1652年)には、大百池村の「大百池」が存在していることがわかります。
また、公園の台地部には縄文時代の住居跡などが地下に存在していることが確認されています。
本公園は古くから地域と密着した関係にあったこの池と、雑木林やアカマツ・スダジイの大木などが見られる台地部の既存林を保全・活用し、人と自然との豊かなふれあいの場となることを願ってつくられています。』
2898)大百池(おおどいけ)
『古代、この地域は麻績氏が開発し、麻布を生産するため、この池で布をさらしたことから、この池の名称が付いたといわれています。
中世には千葉氏の一族、原氏が上総方面の守りのため西側台地上に小弓城を築くと、城ノ台や芋ノ作の谷津とともに城の防御の要所となりました。
字上赤塚には、縄文時代の上赤塚貝塚や古墳群も所在しています。
池水は古くから南生実の耕地900石の灌漑用水の貯水池となって、住民に大切にされて来ました。
現在は、大規模住宅団地「おゆみ野」の最西端の大百池公園整備地として、○や自然観察のできる公園に整備されています。』
2899)
水鳥がたくさんいました。
2900)
2901)
2902)城ノ台遺跡
『この大百池公園の台地上には、城ノ台遺跡という、今からおよそ3万年前の旧石器時代から平安時代にかけての遺跡があります。
園○○運動公園の部分を発掘調査したところ、旧石器時代の石器や縄文時代、古墳時代~平安時代のムラの跡が見つかりました。特に古墳時代のムラでは、多くの住居跡が密集していることから、何世代にもわたる大集落があったと考えられます。
住居跡からは日常生活で使った土器などのほかに、祭り用の石製品も出土しました。
また、奈良・平安時代のムラでは、土器作りに使った粘土の採掘坑と土器を焼いた穴が見つかっています。
生活用品をムラの中で作っていた当時の生活の様子を知る貴重な資料です。
一方、台地東部のこのあたりには、城の土塁や虎口と考えられる遺溝が残っており、戦国時代には城があった可能性もあります。』
2903)
2904)
2905)公園近くの目についた廃墟
2897)大百池公園
『おゆみ野における最も大きく、中心的な公園として計画・整備されたのが面積10.7haの「大百池公園」です。
ここから約2km上流の泉谷公園で生れた水は、せせらぎとなっておゆみの道を下り、森のふもとをめぐり、はるばる旅をしてこの大百池に流れ込みます。
公園面積の約1/5を占める大百池は、かつて溜池として利用されていました。
千葉市史によると慶安五年(1652年)には、大百池村の「大百池」が存在していることがわかります。
また、公園の台地部には縄文時代の住居跡などが地下に存在していることが確認されています。
本公園は古くから地域と密着した関係にあったこの池と、雑木林やアカマツ・スダジイの大木などが見られる台地部の既存林を保全・活用し、人と自然との豊かなふれあいの場となることを願ってつくられています。』
2898)大百池(おおどいけ)
『古代、この地域は麻績氏が開発し、麻布を生産するため、この池で布をさらしたことから、この池の名称が付いたといわれています。
中世には千葉氏の一族、原氏が上総方面の守りのため西側台地上に小弓城を築くと、城ノ台や芋ノ作の谷津とともに城の防御の要所となりました。
字上赤塚には、縄文時代の上赤塚貝塚や古墳群も所在しています。
池水は古くから南生実の耕地900石の灌漑用水の貯水池となって、住民に大切にされて来ました。
現在は、大規模住宅団地「おゆみ野」の最西端の大百池公園整備地として、○や自然観察のできる公園に整備されています。』
2899)
水鳥がたくさんいました。
2900)
2901)
2902)城ノ台遺跡
『この大百池公園の台地上には、城ノ台遺跡という、今からおよそ3万年前の旧石器時代から平安時代にかけての遺跡があります。
園○○運動公園の部分を発掘調査したところ、旧石器時代の石器や縄文時代、古墳時代~平安時代のムラの跡が見つかりました。特に古墳時代のムラでは、多くの住居跡が密集していることから、何世代にもわたる大集落があったと考えられます。
住居跡からは日常生活で使った土器などのほかに、祭り用の石製品も出土しました。
また、奈良・平安時代のムラでは、土器作りに使った粘土の採掘坑と土器を焼いた穴が見つかっています。
生活用品をムラの中で作っていた当時の生活の様子を知る貴重な資料です。
一方、台地東部のこのあたりには、城の土塁や虎口と考えられる遺溝が残っており、戦国時代には城があった可能性もあります。』
2903)
2904)
2905)公園近くの目についた廃墟
2014年02月26日
2014年02月25日
1062.サケ稚魚放流記念碑
横芝光町。
栗山川の河口付近の横芝堰近くにサケ稚魚放流記念碑があります。
2888)横芝堰とサケ稚魚放流記念碑
2889)
『旧上総・下総の国境を流れる栗山川は、古来、豊かな地方文化を育んできた。殊に年々大量に回帰したサケは、流域の人々と深い関係によって結ばれていた。しかし.資源の涸渇とともに、その回帰は減少していった。
栗山川の河口付近の横芝堰近くにサケ稚魚放流記念碑があります。
2888)横芝堰とサケ稚魚放流記念碑
2889)
『旧上総・下総の国境を流れる栗山川は、古来、豊かな地方文化を育んできた。殊に年々大量に回帰したサケは、流域の人々と深い関係によって結ばれていた。しかし.資源の涸渇とともに、その回帰は減少していった。
このため、千葉県では、漁業資源の開発と回帰南限への可能性を求めて、昭和52年1月、ここ横芝堰においてサケの稚魚放流事業を開始した。放流は毎年、近隣小学校の児童によって行われ.すでに12年、延べ880万尾の稚魚たちが、遠く北洋の海へ旅立っていった。
待望久しいサケの回帰は、最初の放流から4年後、昭和55年11月のことであった。その銀鱗輝く雄姿は、テレビのニュースで全国的に報道され、栗山川は「サケのふるさと」として一躍、脚光を浴びるに至った。
このことは、横芝町・光町の住民にとって、等しく誇りにする処である。ここに栗山川の畔に「サケ稚魚放流の碑」を建てて、永く後生に伝えるものである。
昭和63年3月吉日 建立
横 芝 町
光 町』
2890)
2891)
2892)
2893)
何を狙ってるんですか?
ここはサケ捕獲禁止ですよ!