2015年06月
2015年06月25日
1250.かくれ卵塔
香取市(旧栗源町)にある道の駅くりもとの脇に「かくれ卵塔」なる史跡の看板が立っています。
3635)道の駅くりもと
3636)史跡かくれ卵塔の看板が見えます
3637)かくれ卵塔
3638)かくれ卵塔
『法華経を信仰する以外の人にはすべての施しを受けず(不受)また施しもしない(不施)という主義主張の不受不施は京都の僧日奥がはじめた日蓮宗の一派ですがその主張活動は幕府より禁じられ三百余年の長い弾圧を受ける宗派となった。寛文五年(一六六五)同派の日講は佐土原へ流罪となったが一萬部読経を成就されました。この万部塔は日講の遷化後弟子の日念等がその意志をつぎ宝永二年(一七〇五)に建てたものです。
しかし寛政六年(一七九四)当時の支配者への内通により石塔は三日三晩焼かれ、そして打ちくだかれ土中に埋められました。
その後明治九年(一八七六)その宗教活動が許され沢の信徒や堀越義昌氏が掘り出し、組み合されました。』
3635)道の駅くりもと
3636)史跡かくれ卵塔の看板が見えます
3637)かくれ卵塔
3638)かくれ卵塔
『法華経を信仰する以外の人にはすべての施しを受けず(不受)また施しもしない(不施)という主義主張の不受不施は京都の僧日奥がはじめた日蓮宗の一派ですがその主張活動は幕府より禁じられ三百余年の長い弾圧を受ける宗派となった。寛文五年(一六六五)同派の日講は佐土原へ流罪となったが一萬部読経を成就されました。この万部塔は日講の遷化後弟子の日念等がその意志をつぎ宝永二年(一七〇五)に建てたものです。
しかし寛政六年(一七九四)当時の支配者への内通により石塔は三日三晩焼かれ、そして打ちくだかれ土中に埋められました。
その後明治九年(一八七六)その宗教活動が許され沢の信徒や堀越義昌氏が掘り出し、組み合されました。』
2015年06月20日
2015年06月19日
1247.小野派一刀流・流祖小野治朗右衛門忠明 二代小野治朗右衛門忠常の墓
成田市の小野派一刀流・流祖小野治朗右衛門忠明 二代小野治朗右衛門忠常の墓。
3621)成田高校の近くにそれはあります
3622)成田高校沿いに坂道を登って行くと看板がありました。
3623)この階段を上ります
3624)小野派一刀流・流祖小野治朗右衛門忠明 二代小野治朗右衛門忠常の墓
3625)小野派一刀流・流祖小野治朗右衛門忠明 二代小野治朗右衛門忠常の墓
『小野派一刀流
小野治朗右衛門忠明
房州御子神村(現安房郡丸山町)に生れた。はじめ神子典膳と称し、上総万喜の城主土岐少弼頼定に仕えたが、たまたま、来遊した一刀流開祖伊藤一刀斎景久の門に入り、ついに一刀流の正統をうけつぎ、二代将軍徳川秀忠の指南役を勤めた。
武勲あって元和三年(一六一七)に寺台の地頭となり三百石を賜った。
小野治朗右衛門忠常
忠明の二子。三代将軍家光の指南役となり、父忠明に劣らず勇名をはせた。』
3621)成田高校の近くにそれはあります
3622)成田高校沿いに坂道を登って行くと看板がありました。
3623)この階段を上ります
3624)小野派一刀流・流祖小野治朗右衛門忠明 二代小野治朗右衛門忠常の墓
3625)小野派一刀流・流祖小野治朗右衛門忠明 二代小野治朗右衛門忠常の墓
『小野派一刀流
小野治朗右衛門忠明
房州御子神村(現安房郡丸山町)に生れた。はじめ神子典膳と称し、上総万喜の城主土岐少弼頼定に仕えたが、たまたま、来遊した一刀流開祖伊藤一刀斎景久の門に入り、ついに一刀流の正統をうけつぎ、二代将軍徳川秀忠の指南役を勤めた。
武勲あって元和三年(一六一七)に寺台の地頭となり三百石を賜った。
小野治朗右衛門忠常
忠明の二子。三代将軍家光の指南役となり、父忠明に劣らず勇名をはせた。』